夜になる前に


日が落ちて夜の闇が深まりゆく時間は、

それまで見えていた世界がゆっくり見えなくなっていく時間帯でもある。

人間の情報収集能力の約9割は目からであり、

これが働けなくなる闇の時間は、
人が充分に周囲を認知することができない不便な世界だとも言える。

 

「誰そ彼は」(あの人は誰だろう)

相手は見えているけど 誰なのかはっきりと判別できない夕方の呟きが

黄昏(たそがれ)の語源になっているそうだ。

黄昏、夕刻、逢う魔が時、世界が判然としないそんな時刻は、

視覚的に不充分でどこか欠けているようでもあるが、

むしろ視覚が早々に切捨ててしまったものも含めて
本来ある全てのもの(可能性さえも)を含んでいるようにも思える。

 

またしても二元的な見方に陥ってしまうが、

見えているものと見えていなかったもの、意識と無意識、始まりと終わり、
憂いと喜びなど様々な境界が、

いや境界さえも逸した 広く混沌とした概念のようなものが、そこにはあるような気がする。


瑠璃色の帳が下りゆく中 その薄明かりの下で、

目の前に広がるものが何であるのか 試しに手を伸ばしてみようとするけれど、

いつもそれは叶わない、あまりに短い時間だから。